こんなにわくわくする自伝があっていいのかと言いたくなるほどにページをめくるのが楽しくて仕方がない一冊。
初めから終わりまで飽きることなく楽しむことができました。
この本の著者はリチャード・P・ファイマン。
1965年のノーベル賞受賞者です。
内容はファイマン先生自身の奇天烈な人生を綴ったものであり、先の予想ができないほど様々な経験をされています。
人と違うということは誇るべきことであり、先生の自由な生き方は私たち日本人にとって最も憧れる生き方なのかもしれません。
日本人は特に規律を重んじ、人と違うことを気にしやすいところがあります。
しかし、先生はまっすぐなのです。
例えどんなに偉い先生と話していても間違っていることは間違っているといい、興味のあることには突っ走っていきます。
やりたいことをやり、疑問に思ったことは自分がしっかり理解できるまでとことん追求する。
私たちは表面上のことしか見れていないのかもしれません。
また、教育者としても優秀であったファイマン先生からは学ぶということの大切さも同時に学ぶことができます。
この本はぜひ、年齢問わず皆様に読んでいただきたいです。
きっとあなたの人生を後押ししてくれるはずです。
1.リチャード・P・ファイマン
ファイマン先生は1918年ニューヨーク市のファーロッカウェイでユダヤ人家系に生まれました。
12歳の頃には自分の部屋に実験室を作り、様々なものを作ったり、指示薬を使用した科学マジックなどをして楽しみ、同時にラジオに興味を持って壊れていたラジオを拾ってきては直すということをしていました。
そのうち大人からも依頼されるほどの腕前となってラジオを直す仕事を受けることに。
化学と数学は高校ではトップの成績を誇り、数学の授業中には先生から別の本を渡され1人大学レベルの数学を独学で勉強し、これは後にファイマン先生にとってとても良いことに繋がります。
その後、大学はMIT(マサチューセッツ工科大学)に入学、先輩たちの洗礼を受けながら様々な学科の生徒と交流しながら勉強に励むことに。
当時は女性と話すことが苦手な学生でしたが、自伝の中でその変わりようには驚かされるはずです。
ファイマン先生自身はMITがとても好きで、大学院も同じMITで進学するつもりでしたが教授に違う大学院を選択することを勧められプリンストン大学の大学院生となります。
卒業した後は1度は断った原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画に参加。
ウラン濃縮工場の視察から計算機での計算など様々な重要任務に携わりました。
戦争後はコーネル大学の教授を務め、最終的にはカリフォルニア工科大学の教授に就任。
1965年には日本の朝永振一郎氏、ジュリアン・S・シュウィンガー氏と共にノーベル物理学賞を受賞します。
そして、1988年に癌により69歳で亡くなりました。
2、ご冗談でしょう、ファイマンさん
本を読んで印象に残った所を少し紹介していきます。
ファイマン先生はマンハッタン計画に参加している時にアーリーン・グリーンバウムと結婚してきました。
しかし、彼女は結核を患っており、ずっと入院していたのです。
やり取りは文通。
戦時中であったため、文通の中身は全て監視されていました。
暗号を書こうものなら突き返され問われることになります。
それでもファイマン先生は持ち前の好奇心によってどこまでがセーフでどこからがアウトかを様々な検証によって確かめ、賭けをしたりしていました。
そんなある日、妻がもう長くないという連絡を受けます。
そして、病院に到着から2、3時間で息を引き取ることに、、、、
この時のファイマン先生の自伝での表現がなかなか心に突き刺さるので、ぜひ読んでみて下さい。
また、ファイマン先生は日本がとても好きで、自伝の中でも日本に訪れたことを書いています。
東京では無理を言って日本文化を感じるために、和室を注文したり、京都ではお風呂やご飯での出来事を綴っています。
何でも自分でしっかり確かめなければいけない先生だからこそ、このように偉大な先生となれたのであり、研究者でありながら教育者としてもとても素晴らしい持論を持っておられました。
教師をされている方で読まれたことない方は是非とも読んで頂きたいです。
文系や理系なんてそれは関係ありません。
きっとあなたの人生にとっても良い教科書となるはずです。
自伝の中には研究生活以外にも女の人関係やお酒関係なども鮮明に記されており、自由な生き方をされていたんだなと本当に思います。
特に後半は音楽にはまっておられ、素敵な人生を過ごされたんだなと思います。
人生はこれくらい自由に生きなければいけないのかもしれませんね。
3.本の詳細
『ご冗談でしょう、ファイマンさん』
R.P.ファイマン 著
大貫昌子 訳